今回は③回に続き、法華経の構成の第二章 方便品から第9章までの中味を追って行きたいと思います。やはり、NHKテキストの100分de名著から抜き出します。
さて、序品を受けて第二章「方便品」が始まります。釈尊は舎利弗に語ります。まず、小乗仏教の声聞や独覚にはブッダの智慧は理解できないとつっぱねます。これよりあとのところでは、大乗仏教の菩薩さえもそれを理解できないという言葉も出てきます。つまり、声聞、独覚、菩薩の全てを否定するわけですが、最終的にはその三つ全てが肯定されるというのが「方便品」です。引き続き釈尊は、衆生に如来の知見を開き、示し、覚らせ、入らせるという如来出現の4つの理由と目的を語ります。これは究極的には、「一切衆生を成仏させることに集約されます。そして釈尊はブッダに至るための「乗り物」について説きます。乗り物とは、それに乗れば目的地に到達させてくれるもの、つまり教えの譬えです。法華経の主張する一仏乗についてですが、今までは声聞のための乗り物、独覚果に至る乗り物、菩薩という乗り物が説かれていたが、私が本当に説きたいのはブッダに至るただ1つの乗り物のみだということです。つまり、すべての仏にとって、あらゆる衆生を成仏させることが究極の目的なのだから、声聞、独覚、菩薩を区別するのは方便であり、ブッダから見れば人間は平等であるということです。

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しゃが

「法華経」はあらゆる人の成仏を可能とする一乗仏こそが真実の教えであり、声聞・独覚の二乗に菩薩を加えた三乗の教えは全て方便だとしたのです。こうして三乗を融合させ、統一しました。こうして原始仏教で説かれていた平等思想を回復し、差別を取り払いました。二乗に菩薩の自覚をもたらし、大乗の人々には二乗もまた菩薩なのだということを受け入れさせて、声聞、独覚、菩薩の違いはあなたたちの思い込みに過ぎず、人間の平等を理解してこそ”真の菩薩”なのだということを説いています。

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ききょう


次は第3章「譬喩品」です。舎利弗は先の方便品で釈尊の説法を聞き、不思議で驚くべき思いに満たされ、大いなる歓喜を得ましたと告げます。何故なら自分は今まで「如来の知見から落伍」していて成仏できなかったからと言います。それに対して釈迦は、舎利弗が過去において修行したことなどを思い出させるために、妙法蓮華のようにすぐれた正しい教えを声聞たちに説き明かすのだ、と言います。舎利弗は釈尊の言葉に納得し、釈迦は舎利弗に対して授記をなします。授記とは、いつどこで、何という名前の如来に成るかという予言です。ところがこの段階で釈尊の説法を理解したのは舎利弗だけです。そして他の人のために説かれたのが「3車火宅の譬え」です。

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カワガラス

ある資産家の豪邸が火事になりました。その家の中で子供が遊んでいました。火事がいかに危険なものか知らない子供たちは「逃げなさい」と言っても遊びに夢中で耳を貸そうともしません。そこで資産家は日ごろ、子供たちが欲しがっていたおもちゃの羊の車と、鹿の車と牛の車をあげるから外に出てくるように言います。すると子供たちはわれ先にと飛び出して来ました。そこで資産家は、おもちゃの車の代わりに本物の立派な牛の車を与えました。「3車火宅の譬え」の教えはそのような内容です。火事になった家は苦しみに満ちた現実世界です。遊びに夢中になっている子供は六道輪廻している衆生、資産家は如来、おもちゃの鹿の車、羊の車・牛の車はそれぞれ声聞乗・独覚乗・菩薩乗、そして本物の牛の車は一乗仏の譬喩です。
資産家は自分で子供を抱えて連れ出せばできた。でもそれをやらなかった。相手が納得しないのに強引に外へ連れて行くのではなく、子供たちが自覚し、自分たちでそこを抜け出してくることを尊重しています。…なんだか足利5Sもこれに通じます…ここでは超能力や神がかり的な救済を説いたのではなく、方便などを駆使して、子供達の自覚的行動を促したのです。菩薩乗が声聞乗や独覚乗と同じく玩具とされたのは、三乗がいずれも差別思想を残しているからです。

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テッポウユリ

第4章「信解品」は三車火宅の譬えを聞いた弟子たちが、「私たちはこのように解釈しました」という確認の意味を込めて、今度は弟子たちが「長者窮子の譬え」を語ります。これを語るのは、須菩提、魔訶迦旋延、魔訶迦葉、大目犍連、の四大声聞です。4人とも恵まれた出自です。彼らはまだ覚りには至っていないが、自分は涅槃を得ていた、と思っていた人たちです。つまり、大乗仏教については聞いて知っていたが「自分には関係ない」と思っていたというのです。
「長者窮子の譬え」は資産家の息子が幼い時に出奔し、50年以上も他国を流浪して困窮したあげくに父親の邸宅にたどり着きました。父親は他国で商人として成功していました。父親はあれやこれやを手を尽くして、息子を自分の息子と自覚させて、最終的には財産相続人にしました。息子は「この上ない宝物を求めずして自ら得た」と語ります。これは、菩薩の教えを自分とは無縁なものと考えて、自ら求めなかった声聞たちも、実は菩薩であった、すなわち成仏できることを知った喜びを表明する譬えです。「自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法をよりどころとして、他のものによることなかれ」他人がどう見ているかを気にせずに「よりどころは自分だ」と教えているのです。
「長者窮子の譬え」を語った四大声聞は自らを汚物処理の仕事をする息子になぞらえて語っています。インドで汚物処理は不可触民の仕事です。カースト制度の4つの階層のさらに下に位置付けられた人たちで、激しい差別を受ける存在です。「法華経」の編集者たちは、こうした階層とバラモンや資産家出身の声聞たちを結びつけました。…

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ゴジュウカラ

こうして四大声聞は釈尊の話を理解するようになりました。この後、第五章「薬草諭品」、第六章「授記品」第七章「化城喩品」第八章「五百弟子授記本」第九章「授学無学人記品」を通じて四大声聞、およびその他さまざまな声聞たちへの授記がなされます。釈尊がそれぞれに対して、異なるアプローチで教えを説き、納得させています。第五章から第九章の内容については次回に触れてみます。

正直な所、ここまで来て、自分は何をやっているのだろう、と思いながら抜粋を写しています。法華経を知って何になるのか、なんのために書いているのか…自分でもわかりません。ただ、書き進むうちに中味の理解は少しずつ深まって来ます。法華経は人の平等を極限まで求めているようですし、でもこのことは未だに解決されていないように思われます。これからもどうなのでしょうか。でも、少しは良くなって来ているのでしょうか。こんなことに逡巡しながら、手抜きをしながらも、できれば最後まで書き進んで行きたいと考えています。